2025年1月20日 15:13 | 音楽のこと
私のこれまでの楽曲は、私の娘への想いを切り離すことはできない。
重度知的障害を始めとしたありとあらゆる障がいを持って生まれ、会話することが困難だったことから、表面的なコミュニケーションを表現した楽曲にはなり得なかった。
こうだったらいいな、こんな精神の疎通、心のやりとりが成り立っていたらいいな、そういう、精神的な想いが主軸となっている。
娘がてんかんによる窒息で脳死に陥り、ほどなくして亡くなったことで、殊更楽曲が持つ精神的な意味合いは強化され、私にとっての宝物になった。
アルバム「月光」は、そんな想いとイメージ、風景が主体となってできている楽曲群で、特に「舞魚」「遠想」「雲響」「月光」の4曲は曲同士の結びつきも深く、私の想いをストレートに織り込んだ曲である。
「舞魚」
娘は、音楽が好きで、気に入った曲が流れると笑顔でクルクルと舞う様に踊った。
その姿は今でも私の心に深く残っている。
私は娘を美しい魚になぞらえて、「ドシラソラ・ドレミソレ」というテーマを作った。
気ままに泳ぐ魚は、美しくまた切なく思えた。
中間部分は、そんな娘が踊る・魚が舞い泳ぐ姿を描いた即興的な部分である。
「遠想」
言葉が話せず、コミュニケーションが取れない娘に、思い描いた「心の声」をテーマにした。
「7.1」の音形は私の呼びかけ、「2.1」の音形は娘の応答
という、心の会話をイメージした。
曲の最後は、呼びかけと呼応が、まとまったメロディーに発展し、そのやり取りが作り出す美しい風景へと導きたかった。
「雲響」
クモユラと名付けたこの曲は、娘への想いを胸に、娘に会いに行く精神的な道のりを、雲海の中を進むイメージに照らし合わせて表現した。
中間部分では、雲海の遥か上では、何事にも動じずに静かに優しく光る月が見える様を、「月光」のモチーフを一部だけ配置して表現した。
「月光」
曲を描き進めるにあたって、舞魚と月の風景が、美しくも切なく、私と娘の世界にあてはまるような感覚になり、月に照らされながら泳ぐ舞魚はさぞかし美しかろうと考えた。
娘を舞魚
私自身を月
に置き換え、私が見守る中で娘が気ままに泳ぐ世界を表現しようと思った。
「雲響」の中間部分で登場した月光のモチーフをメロディとして繋ぎ、後はどのように「舞魚」と絡めるかを考える中で、構成的に舞魚の楽曲そのものを月光で挟み込む、包み込む構成にすることにした。
それゆえ、中間部分は月光に照らされる舞魚がそっくりそのまま配置されているが、転調をしながらよりドラマティックに描いた。
後半の再現部で、テンポチェンジされた月光のテーマは、より強く、より感情的に演奏され、終結する。
娘が亡くなり、このアルバムは娘へあてた私の想いのタイムカプセルのような意味合いを持つこととなった。
管弦楽化する際に、一楽章が「遠想」、二楽章が「雲響」、終楽章が「月光」と選んだのには、上記のことから一貫した想いのターゲットと、曲同士の関係性からくる意味がある。
そして「舞魚」を入れなかったのは、終楽章「月光」の中に「舞魚」が生きているからである。
私はこれらの曲で、悲しくとも美しい、永遠に生き続ける風景を再現したかった。
このような背景を踏まえて楽曲を聴いていただくことに、なんらかの意味が生まれることを、心から願っている。