永遠の師匠 深川さん

2024年8月22日 04:52 | 日常のこと

■ウェブ事業の立ち上げ

私が人生を左右することになった神のような存在だと敬う師は三人いる。
一人目は大学入学までピアノを教えてくださった眞田光子先生。静岡県を代表するピアニストで現在もご活躍中だ。
二人目は20代で作曲を教えてくださった北條直彦先生。私はどうにも出来がわるい弟子で、大変だったと思う。

私は何とか音楽をものにしようと、アルバイトで食いつなぎ20代を生きてきた。アルバイト以外は家で黙々と和声の勉強を続ける引きこもりのような生活だった。
自分を引きこもりと言うからには、当時私は自分の人生について相当の焦りがあり、同世代の知り合いやかつての同級生がやれ家庭をもったことの、子供が生まれたのことの、家を建てたのことの、そんな情報を見聞きするたびに、自分の将来が全く見えず財力も実力も無い現実に打ちひしがれて、
その状況から逃げるように勉強するという、もはや音楽そのものを何故やっているのかを見失う程追い詰められた。
また、北條先生からは、「君が勉強ばかりするのは逃げだと思うよ。そうでなければもっと曲を書きたくなるはずだもの。」
と全て見抜かれ、いよいよ参った。

私は20代前半である結婚式場で配膳人にアルバイトをしていた。当時、配膳人は特別時給が高いアルバイトだった。
その仕事中、8人分のシャンパンが載ったトレイを運ぶ最中、ケーブルに足をとられすっころび、お客様にぶちまけてしまったことがある。
当然社員さんにはこっぴどく叱られ、他のアルバイトが見ている中で、丸めた新聞紙で頭を叩かれた。
以来、すっかり仕事に怖気づいてしまい、働くことが怖くなってしまった。

20代後半は、自分が世の中で一番ダメなやつだ、音楽で奇跡なんておきるハズがない、自信もない、30までやって何も起きなかったら、意を決して働こう。そう思っていた。
そして当たり前の如く、奇跡は起きなかった。


30歳になって私は東京から静岡に戻り、ある広告代理店に面接にゆき、パートとして働くことになった。
その会社は冊子の広告を作ることを収益の主軸としており、紙ベースの仕事が大半を占めていた。

パートを3か月程やった頃、社長と幹部に呼び出され、
「よく働いてくれているようだ、ある条件付きで社員にしたいのだがどうだ?」
と提案をいただいた。
その条件とは、「ウチの会社は伝統的な紙での広告業が全てである、しかし時代はITだ。この会社にはプログラマーもウェブに詳しい人間も、そういった部署もない。ウェブの勉強をして事業を立ち上げることが条件で社員化するのはどうか。」というものだった。
私はハンゲームというネットゲームとメールくらいしかパソコンはやったことがなく、全く自信はなかったが、「ここが変わり時だ、チャンスなんだ」と思い、「やります」と即答した。

アルバイト料は当時手取りで14万程度で、少しも無駄にできなかった私は、その話があった次の日から近くの本屋通いを始めた。コンピュータ入門書からIT関連の本を片っ端から立ち読みした。
読んでいるうちに、ホームページを作れるようになれば、それを仕事にできることがわかってきた。

一週間程経った時、社長に、「勉強期間は3か月与える。本も自由に買ってよい。3ヶ月後に何か成果を見せてくれ」
と言われた。お言葉に甘え、「イヌでもわかる○○講座」なる本をねだって買ってもらった。

そこからは必死だった。会社員には「勉強するのが仕事なの?いいよね。」と白い目で見られながらも本を読み、家に帰ると明け方までHTMLを組んでみた。
当時、今から20年程前は、HTMLのみのテーブルレイアウトから、CSSという見た目をコントロールする言語に世の中が移行し始めている頃で、
HTML(マークアップ言語)とCSS(スタイルシート)とjavascript(ブラウザベースのプログラム言語)という3種を抑えれば何となく先が見えてくることもわかってきて、3ヶ月でこれらを使ってウェブサイトを作って見せることにした。

かくして、サイトを一つ作り上げ、意気揚々と社長に見せにいった。ピアノの商品サイトを作った。
「すごい!いいね!!やるじゃない!!で、どうやってこれを仕事にするの??」

真っ白になった私は、「更に一週間ください。仕事にします。」
と答えて社長室を後にした。
生きた心地がしなかった。音楽しかやってこなかった私は、「仕事にする」という感覚が欠如しており、ああ、終わった、ここまでか。。。とも思った。

さあ、どんな結末になるかな、やはり俺じゃ無理よね、などと意味ない思考に時間を使いつつ、マクドナルドでハンバーガーを食べながら、ぼんやりカウンター上の価格表を眺めていた時、
奇跡っぽいことが起きた。
HTMLは、ページ単位で存在しており、通常の例えば美容室のサイトならトップページ、店舗情報ページ、価格一覧ページ、問い合わせページ等の4~5ページの構成でできている。
これらを20種類づつ予め作っておき、文章と画像だけ「ナウプリンティング」等の代替えを当てておく。それをカタログ化して、営業さんに「ホームページ作りませんか?」と営業をかけてもらう。
カタログから好きなレイアウトを選んでもらって、紙でチェックかなんかをしてもらい、それを私が受け取る。既にHTMLとCSSは出来ているわけで、チェックに従ってフォルダにコピペしてゆくだけで、
プログラム作成時間は数分に短縮できる。あとはお客様から画像と文章をいただければ、速攻で納品できる!すなわちそれだけ安価に設定できる。
他社が30万でウェブサイトを作るなら、わが社は5万でできますよ!という発想が浮かんできた。

今でこそウェブサイトの自動生成サービスは発展してきたものの、20年前は十分これでも画期的だったのだ。

サーバ代、ドメイン代、更新費用に関わるランニング費用(1万5千円)と、制作に関わるイニシャル(5万円)を明示の上、選べるそれぞれのページのメニュー表を作成し、20種類づつページも組んでおき、いよいよ会社でプレゼンを行った。
真っ先に食いついてくれたのは当時の営業部長だった。
「これなら取れますよ。営業を3人配置してくれれば月70件は取ってきます!そうすれば更新してるだけで月100万以上が積み上がる。」と背中を押してくれた。
後にその「更新してるだけ」に首をしめられることになるのだが、それはまた別の物語。

そしてそれは実現され、私はテンプレートの改良とコピペをしまくり、案件数は一年で実に400店舗を数える程に膨れ上がった。
同時に、営業のプロ達の底力にも圧倒され、心底営業職というものを尊敬するきっかけにもなった。

事業が億の数字に到達した頃、会社はある繋がりから「ウェブコンサル」を導入した。
ウェブサイトがもたらすお客様への恩恵を、より追究してゆこうという流れになったからだ。


かくして私は、私が尊敬する3人目の師、コンサルタントの「深川さん」と出会うことになった。


■深川さん

広島にあるIT企業に勤め、コンサルタントとしても活動していた深川さんは、100キロを超える巨漢で髪の毛ボウボウの、凄まじいオーラを持つ男だった。
当時私は31歳、彼は37歳。既にプログラムの書籍を大手から出版する程の達人で、私は完全に萎縮していた。
はじめて会社に訪れてもらった日、
「この会社でウェブわかる人おりますか?」と問い、
社長が「います、彼です。」
と私を紹介すると、深川さんはさっそく私に
「作ったもの見せてください。」
と言ってきた。
500件ほどの案件の一覧を表示する特設サイトも作ってあったので、それを見せると、
「ほう!大分できてますなあ!」と関西弁でカラッと言い放ち、
社長に、
「営業さんにはウェブ販促、ウェブ解析を、彼には次の段階を教えますわ!」
と嬉しそうに提案した。

丁度そのころ、リースが新しくなったあるソフトウェアに苦戦して使いこなせていなかった社内のスタッフが、深川さんに教えてほしいと頼んだところ、
「ソフトのマニュアル見せてください」とマニュアルを手にし、
1ページ数秒のペースでペラペラとめくっていったかと思うと、10分程で、「はい、わかりましたわー」
と説明を開始した。

はあ?????と私は口を開いていたと思う。
そういう人を初めて目の前でみることになった。天才というものだった。

以後、彼は自分で開発したあらゆるサイトやソフトを私に見せてくれたし、私も商品を開発する度に彼に見せた。
見せる度に彼は「ここの部分しびれますわ!!」といい所だけを探して誉めてくれた。
私は嬉しくて、自分自身で微妙だなと思う部分をどんどん修正し、同時に新しい機能を見せようと、毎晩毎晩夜中まで商品開発に勤しんだ。

何年か経つと、教わることより雑談が増えた。
彼のお子さんがピアノを習っていて、かなり弾くことがわかり、音楽談義にも花がさいた。
ある日、「あなたには10万時間の法則にのっとったモノがあるんですわ。そういう人は強いんですわ。」
と言いながら、私が作ったある案件の入力フォームを自分のパソコンに表示した。
私は、入力フォームというものはどこかシステマチックでビジネスライクな見た目、冷たいイメージがあると考えており、
だから、その店舗のオリジナルキャラをフラッシュでアニメーションさせ、入力フォームに書き込んでいるカスタマーが少しでも楽しくなる見た目をと思い、
キャラを入力フォームの隣でぬるぬる踊るように作ったものだった。
「こういう部分ですわ。これ、あなただからできるんですわ。音楽と通づるもんがあるんですよね、きっと。お客さんと、その向こうにいるお客さんのことまで考えて物をつくる、そういうところが僕も好きですわ。」
そう嬉しそうに私に語ってくれた。いつまでもこの一言は忘れない。

彼のお蔭で私のウェブ技術はめきめきと向上していった。しかし、何のために作るのか、何を作るのかが最終的には一番大切であることを私に定着させてくれたことは、音楽にまで影響する宝物のような気付きだった。
彼は、本物の、心をもった天才だった。

何年もの間ウェブコンサルを中心に、一緒にハンバーガーをほうばりながら、世の中にipadが初めて発売された日も「さすがアップル!!説明書もなにもない!!この部品は一体なんなんだかすらわからない!!」
と笑い合いながら話した。
彼が坂本龍一の曲が好きなことも、クラシックの中ではラ・カンパネラが大好きであることも、人生論も、ありとあらゆる話をした。
「ラ・カンパネラを生で聴きたい、いや、あなたが弾くところを眺めていたい」
と言うので、いつか実現します、と約束した。
とても楽しい、実りある時代だった。


4年ほどたった時、彼はぱったりコンサルに来なくなった。
社長にコンサルは終わったのか?と聞くと、いや、ちょっと訳あって、と何か言いにくそうだった。

それからすぐ彼から私にメールが届いた。
「もう知っているとおもいますが、会社で吐血してしまって、うちの社長に怒られたんです。すぐに病院に行けって。
そしたら、胃がやられてまして、ステージ4でした。しばらく訪問は休憩しますー」
と軽い言い方で書いてあった。
「また会いたい。祈っている。」
と返すと、
「僕は治すと決めたから、たぶん治ります。約束もあるし。」
とまたメールがきた。
それから半年後、
「自分が何者であるかを考えることは、宇宙の果てに思いを馳せるのに似ていますね。」
という短いメールが届いた。
私はどう返したらいいかがわからず、メールが返せなかった。


それから数週間後、彼が勤める広島の会社からメールで
「深川永眠のお知らせ」

が届いた。
享年43歳だった。
私はその直後、大きな大学から「ウェブプログラム・ウェブデザイン・情報処理」の講師のお話を受け、大学講師となった。
深川さんのお蔭であることは間違いない。

深川さんが天才であったこと、間違いなく一つの会社の歴史を変えるコンサルタントであったこと、
私の音楽活動にまで影響を及ぼすIT技術者であったことはもはや誰も知らないし、語る人もいません。
だから、このブログを書きました。
私は今日、うたたねした時に、深川さんの夢を見ました。
「元気でやってますなあ!」
と笑っていました。

私は今はあの時の深川さんの歳を大きく超え、あの時教えてもらった「作るということ」「誰に向けるか」そして人生というものといった大切なものを胸に今だ活動しております。
私がウェブの仕事を音楽と同じように続けるのは、大切な、私と師の時間が間違いなくあったからです。
自分の力だけで手に入れた技術ではありません。
私の中で、彼は確実に師だったし、これからもそれは変わりません。

だから、活かし続けます。


とても長い文章となりました。
お読みいただき心から感謝します。
何か、どこかが、少しでも感じることがあったなら嬉しいです。

2024.8.21
DAKOKU


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