時間を受け入れること。そしてその先は。

2026年4月20日 20:28 | 日常のこと

最近、幼少期や児童期を思い出すことがある。
そしてあらためて思う事があった。


幼稚園児だった私は、近所に住む女の子が「メリーさんの羊」をピアノで弾くのを見て、それがやけにドエライことに感じられて、憧れてしまって、ピアノが弾けるようになりたいと母に伝えた。それを聞いていた祖父は、習ったらいいと、自分の教え子にピアニストがいるから、とある先生に紹介してくれた。

祖父は静岡で教員をし、多数の小・中・高校の校長を歴任し、常葉大学の教授となり、果ては市の教育長まで上り詰めた教育の専門家で、教え子は星の数ほど存在した。

私が通った小学生の校長は祖父の教え子、中学は歴代校長として校長室に祖父の写真が飾られ、社会科の先生が教え子、高校も複数人の教え子が教員を勤めていたから、テストで悪い点をとろうものなら私が帰るより先に祖父がそのことを知っていて、帰るなり反省文10枚が待っている。
祖父の教え子達が、私が帰る前に祖父に連絡をしてしまうのだ。
さらには私が帰りの会が終わるのを祖父が校長室で待っていて、皆が放課後サッカーやドッチボールをやり始めるやいなや、祖父はピアノの練習をしろと私を捕まえて家まで連れ帰り、ピアノの前に座らせた。

ピアノの椅子の後ろにもう一つ椅子を置き、そこに祖父は座って腕を組んだまま私を見張り、トイレに行く時も許可を取ってからでないと行かせてもらえず、一度だけ、トイレで数分ボーっとただずんでいたら怒鳴り声が聞こえ、あわてて戻ると、サボったな!と殴られた。
口を切って血が出ると、顔を洗ってこいと言われ、戻るとまた叩かれた。
歯の矯正器具が入っていたため、口の中は酷い有様だった。
低学年のうちはそれでも友達ができ、日曜に家にも遊びに来てくれたが、祖父が「ダコはピアノの練習をしてるから帰れ!」と帰らせてしまっていた。

祖父はブチ切れると、黒電話等、当たると大ダメージのものまで平気で投げつけてきたので、かなり危ない目にも合ったが、私はむしろ自分が殴られることは、チカチカと星が飛びまくるのを我慢するくらいで慣れてしまっていて、私に対する怒鳴り声も、何だかよくわからないが遠くで小さく鳴っている音に変換することが意識的にできるようになっていて、自分がその状態になると、あ、来た、良かった、助かったと考えるほど余裕があった。
しかし、母と祖父の怒鳴り合いを日常的に聞いている方がよほど心が縮む思いで、その怒鳴り合いを聞いていると、いつ何時私に矛先が向き呼び出されるか、それに対しては怯えて過ごす日々が続いた。

田舎であったため、我が家の在り様は地域でもかなり有名で、このことは当時ピアノ男子の人口が今よりずっと少なく、「おかま!おかま!」と虐められることに拍車をかけ、登校すると道具箱が切り刻まれていたり、座布団代わりの防災頭巾の中に画鋲が仕込まれていたり、自転車で道路を走っていると歩道側から車道側にいきなり蹴り倒されたり、同年や上級生からなかなかに壮絶なイジメに合うことに繋がった。
ドッチボールをやりたかった私は、祖父が仕事で学校に来ない日の放課後、ドッチボールに入れてくれとクラスの仲間に頼んだが、結局追い回され、顔をカッターで切られた。この傷は50になった今でもよく見ると顔に残っている。
それを知ると祖父は、決まって相手の家に怒鳴り込んでいったが、私は感謝どころか、頼むからやめてくれと毎日祈った。

幼い私は、ピアノなのか、私の振る舞いなのか、祖父なのか、何故こんなことになっているのかが分析できず、
「ピアノ、辞めたかったら辞めていいんだよ?」と言う母のセリフも本心に聞こえず、正解が何かわからないまま、もはやピアノを始めた動機などどうでもよく、私は怒られないように練習した。
母は必死になって間に割って入り、大喧嘩していたが、私のピアノの進歩が遅いのはお前の教育が悪いからだと母が怒鳴りつけられるのを、それこそ毎日毎日見る中で、いつしか母が虐められない為にピアノに向かった。
父は祖父が怒り出すと、パチンコに出かけ、「もうおわった?」とこっそり帰ってくる、そんな日常だった。

登校しても家にいてもお腹のあたりが重力を感じないような感覚に常に襲われており、文房具店を営んでいた家から画用紙をもらい、工作に没頭した。作っている間は、その感覚を忘れることができた。
中学生になったころ、この感覚が「緊張」であることを知った。

私は小3年頃から眞田光子先生の門下に入り、二週間に一度、新幹線で先生のご自宅に通った。
二週間に一度のレッスンだったので課題はそれなりに多く、「バッハ」「練習曲」「曲」がそれぞれ2:2:1で出された。

小6の終わりまで、母がレッスンについて来てくれていたが、ワンレッスン1万5千、新幹線代、バス代を捻出してくれていた母は手芸の先生をしており、夜中まで商品の編み物を頑張り、必ずレッスン中もピアノの後にあるソファーで編み物をしていた。

師は母の前でも容赦なく私を指導したから、後に聞いたところ、母は編み物をしながら油汗だらけで胃が縮む思いだったと言っていた。

私はそれを幼心に感じていたので、練習不足等で師に問い詰められ、打たれ弱い私は帰りの新幹線でメソメソしていたが、何より、ついてきてくれる母に申し訳なく思って、余計に落ち込んだ。


上原先生という女性の教師がいた。
私の家の問題と、祖父と学校の関係や状況を知っていた当時40代の小柄な女性の先生が、小6年次の担任になった。
上原先生は、黒柳徹子ばりの玉ねぎカットで、何事にも熱血。
音楽が専門ではあったが、担任として全てに満遍なく厳しかった。
上原先生は、群や市の音楽会に参加するため、児童の中から特に音楽が好きで歌の上手な生徒を選抜し、合唱隊を作り、 上原先生は、おそらく意図的に私を伴奏者に任命した。
私はとても嫌だった。一体今後、クラスの皆が、合唱隊が、私にどのような行動をとってくるのか不安だった。

ある日、私が風邪で一週間ほど学校を休んだ時、合唱の練習は完全にストップした。
先生が代わりに弾けば一発で済むものを、上原先生は、敢えて私がいないからと練習を休止し、クラスや合唱隊に、
「ダコ君がいないとこの音楽はできないんだよ。その代わり、ダコ君もアナタたちの歌がなければ伴奏にならないんだよ。」
と演説をしたのだということを、後日母から聞いた。上原先生は、何をさておき、私の母と仲良く交流することを惜しまなかった。

私が再登校したその日、数人が
「はやく弾いてくれよ!合唱ができないじゃん!」
と口を揃えて私を手招きした。
私は何だか別の世界に飛び込んだかのように幸せな気分になった。
そして、あっという間に虐めは収まった。

「エーデルワイス」と「チロを連れて」という二曲は今でもカセットの録音が残る、私の音楽の始まりというべき宝物になった。


音楽を好きで始めた。
怒られないようにするために続けた。
そして、「自分以外のために」演奏する。

かなり早い段階で自分と音楽の関係性が入れ替わり、それは今後の糧となった。


その頃、やらなければ怒られる。しかし、どこまでやったら褒められるだろうと疑問に思った私は、 祖父が休みの日に、朝から晩までをかけて、ハノンを止まらずに8時間ぶっ通しで弾き続けたことがある。
私も半分意地みたいなものがあったが、途中で止めたらせっかくの時間がもったいないと思い、ひたすら続けた。
しかし、さすがに20分ほど弾いていたら、腕がパンパンになってきて指の感覚もおかしくなってきた。
耳から聴こえる音も粒揃いが荒くなり、制御が効きづらくなるのがわかった。
このまま行っても1時間ともたないと思った私は、とにかくラクに弾ける感覚を探した。音量も半減させたり、タッチの力点を変えたり、弾き続ける最中であらゆることを試した。
多分かなり集中していたのだと思う。
祖父が、「おい、ちゃんとメシを食え」と嬉しそうな顔をして言ってきたのを見て、目標を達成した私は「うん!食べる!」と言ってハノンをやめたが、
同時に、脱力の仕方と、音色はかなりの範囲で変えられることを知り、たった一回のこのチャレンジで得たものは計り知れなかった。




およそ12歳までの自分と環境を思いだした。
人間は誰しも様々な思い出を持っている。

トラウマや思考の傾向、習慣といった、今を形成することのほとんどはその物語が背景にある。

でも。

それを原因とするのか、教師とするのか。
反感を増幅させるのか、展開し昇華させるのか。
自分以外の人間の持つ、その人の物語に潜む背景を、見るか見ないか。
過去の環境や時間や空間や感情は、もしかしたら自分以外の人間が作ったかもしれないが、
今、それを煮るのも焼くのも活かすも殺すも、最後の最後は自分自身だ。

私は、「自分ではどうしようもなかったこと」をプラスに転じるために、もがき、工夫し、気付き、そういったことを「努力」というのだと思う。

その流れの中に、音楽の自由もきっと見つかる。

人って、一人じゃ何もできない。そこには自然な感謝がわいてくる。
自分で作ったパーツもある、自分以外が作ったパーツももちろんたくさんある。
しかし、それを組み立てて自分を作るのは、自分しかいない。


だから、
前を向こう。

感謝しながら、自由を生きよう。

あひるの子は、かわいいのである。
DAKOKU